朽木稙綱 (戦国武将) (Tanetsuna KUTSUKI (Japanese military commander in the Sengoku period))

朽木 稙綱(くつき たねつな、明応7年(1498年) - 天文 (元号)15年(1546年))は戦国時代 (日本)の武将。
近江国朽木谷の国人。
朽木貞清の子、朽木晴綱の父。

朽木氏に関して活字史料としては『朽木文書』(以下「同文書」)に数多くの文書が残されており、稙綱も史料中に多く登場する。

同文書内での初見は永正2年(1505年)で「竹松」という幼名で登場。
室町幕府奉行人の飯尾元行、松田頼亮から奉書を受け取っている。

正確な元服年はわからないが、永正13年(1516年)には室町幕府10代将軍・足利義稙の偏諱を受けて「稙広」と名乗っている(足利義稙が義尹から義稙に改名した年月から推定すると、稙綱が元服したのは永正10年(1514年)から同13年までの間と考えられる)。
大永2年(1522年)から同4年の間に稙綱と改名。
官職は民部少輔。

近江国の六角氏や京極氏と争い、あくまで独立を維持していたが、名将・六角定頼が勢力を拡大してくると、その配下として服属せざるを得なくなったという。
1525年の浅井攻めでは、六角定頼軍の先鋒を務めている。

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